昔の日本では、「山」には神様が住んでいて、信心や修行のために登るものでしたが、国によっては山登りはスポーツに近くて、「制覇」する、というような感覚になる場合もあるようです。
どちらも正しいあり方だと思いますが、同じように、楽器に対する考え方も人それぞれです。
僕が、最近目につくことは、結構平気で楽器を「またぐ」ミュージシャンが多いということ。
和楽器奏者とよく演奏していたころ、神聖な楽器をまたいで師匠に怒られた、というような話を時々聴いて、僕は、電車の中で仕方ないとか、部屋が狭いとか、特別な場合以外は、一切しなくなりました。
敬虔な人になると、バイオリンや、三味線の、「頭(ヘッド)」の部分には精霊が宿るというので、演奏する時以外は、カバーをかけるというような人もいます。
僕はそこまでのことではないなあと思うので、せめて例えば帽子や本のように、足の下にしないなど、ちょっと大切にしようという程度に心がけています。
逆に、楽器はただ表現するための道具で、大事なのは自分の心や体、というような考え方もあって、どちらが正しいというわけではないですが、まあ、そんな風に考えてる人もいると思って、他人の楽器をまたぐのはやめてほしいなあと思うわけであります。
どちらも正しいあり方だと思いますが、同じように、楽器に対する考え方も人それぞれです。
僕が、最近目につくことは、結構平気で楽器を「またぐ」ミュージシャンが多いということ。
和楽器奏者とよく演奏していたころ、神聖な楽器をまたいで師匠に怒られた、というような話を時々聴いて、僕は、電車の中で仕方ないとか、部屋が狭いとか、特別な場合以外は、一切しなくなりました。
敬虔な人になると、バイオリンや、三味線の、「頭(ヘッド)」の部分には精霊が宿るというので、演奏する時以外は、カバーをかけるというような人もいます。
僕はそこまでのことではないなあと思うので、せめて例えば帽子や本のように、足の下にしないなど、ちょっと大切にしようという程度に心がけています。
逆に、楽器はただ表現するための道具で、大事なのは自分の心や体、というような考え方もあって、どちらが正しいというわけではないですが、まあ、そんな風に考えてる人もいると思って、他人の楽器をまたぐのはやめてほしいなあと思うわけであります。
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