山のほうは夕方、激しい雷とともに沢山の雨が降ったようです。
お施餓鬼法要の朗読「芋粥」の稽古で、久しぶりに東壽院さんを訪れました(昨年5月「舞語り」という公演をさせて頂いた場所です)。
本番の会場は違うお寺さんですが、僕たちのために場所を貸して下さったのです。
稽古の後、ご住職は相変わらず穏やかな表情で、粛々と仏教のお話をしてくださいました。
境内は、雨上がりのさわやかな静けさに包まれていて、植物の呼吸まで聞こえるようでした。
なぜ僕は音楽というものを演奏し、
なぜ俳優さんは演技をし、
なぜお坊さんは説法をするのだろう。
なぜ僕たちは自と他を比べ、
なぜ幸と不幸という明暗に点在しようとするのだろう。
音楽や芸術の行きつく先も、ここでもなく、あちらでもなく、我でもなく、他でもなく、上手いでもなく下手でもなく、YESでもなくNOでもなく、なんてジョン・レノンみたいなことを行ったり来たりしているうちに、たどり着くでもなく、はなから居るでもない、自然な境地の中にあるのかもしれません。
禅問答というのもすべてを否定し尽くすところから始まるようですが。
ご住職は、音楽はみんなで一つの時間・感覚を共有することに気づくことができる大切なものだと優しく認めてくださいました。
いやはや、我を引く第一歩になるでしょうか。
ギターを握っている限り不可能な気もします。
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