UHUにて、また久々に近藤智洋さんと一緒にライブをし、楽しい時間を過ごすことができました。
今度は僕がゲストとして東京へと誘っていただきました。
そのように評価していただけることはありがたいことですが、自分としてはいつまでも自分が下手くそだとしか思えないので、意外なことのように思います。
翌日は、実家の寺の方で法要があり帰省しました。
この法事は定例のものですが、偶然にも東日本大震災の3回忌の時期と重なるので、同時に回向をして、犠牲者の霊を追悼しようということになりました。
その中で住職である父の発案で、「鎮魂歌」と称して、お前何か歌え、という風に僕に白羽の矢がたち、何と法要の最後にミニコンサートをすることになってしまったのです。
音楽供養という言葉もありますが、僕は霊魂に対して自分たちのちゃらちゃらした音楽など、まるっきり役に立たないと思っています。
もちろん父も本当にたかが流行り歌で鎮魂ができるほど、人の生き死には簡単なものではないと理解しているはずです。
そのために、古来からいわゆる宗教的儀式があるのです。
なので、震災後よく歌われるようになった曲を、あくまで普段から耳にするであろう音楽を通じて、そういった節目にだけ災害のことを思い出すのではなく、常に祈りの気持ちを持っていろいろなことに接していく、ということを忘れないでいたい、というメッセージを込めて演奏させていただきました。
日ごろ漫然とこなしていた法事で自分の音楽を披露する、ということで、いかに信仰というものが大切であるか、あらためて考えさせられました。
無責任な「がんばれ」という言葉が非難されたように、沢山の悲しみを背負った方に対して、どのように語りかけたらいいか、というようなことが、盛んに議論されています。
しかし、きちんとした信仰をもつ者同士は、そういった表面的な言葉や態度に関する価値観の違いをたちまち飛び越えて、直接的に、シンプルな共通した言葉で話し合えると信じます。
時には、まるで共通点のない人々が集まって、肉親以上に助け合うことができることを実感したりするのです。
これは例えですが敬虔なクリスチャンであれば、「神のご加護を。」という言葉の中に無限のいたわりや、激励や、共感をこめることができるのではないでしょうか。
僕たちの信仰を同じくする人たちからは、震災後、義援金よりも何よりも、支援に来た人と一緒になって本堂のご本尊に向かえた時が一番うれしかった、という話を聞きました。
僕たちの信仰を同じくする人たちからは、震災後、義援金よりも何よりも、支援に来た人と一緒になって本堂のご本尊に向かえた時が一番うれしかった、という話を聞きました。
このブログは、特定の思想などを喧伝したりする目的ではないので、表現の仕方は難しいですが、祈りの気持ちを礎にすることで、何でがんばっている人にさらにがんばれっていうの、とか、復興支援が偽善であるとか、まるで無用な、形のない誤解を解くところから始めなくてもすむのではないか、という気持ちがするのであります。
父親から、そんなことを考える機会を持つように、と自分に演奏の機会を与えられたようにも思いました。
今日は少し恐れ多いことを書きました。
まるで苦労知らずの身勝手な意見を申し述べることをお許しください。
東日本大震災だけでなく、数々の災害や事件、事故等でご苦労なさっている方の気持ちが少しでも多く癒えることを、心からお祈りいたします。
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