2013年1月15日火曜日

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兄の家に泊めてもらって翌朝起きてみると、なんと東京は大雪。

昨日のあたたかさが夢のように冷え込んで、大粒のぼた雪がそぼそぼと降っています。静岡ではめったに降らない雪にうれしくなって、用もないのにコンビニに買い物に行ってしまったりしました。

演奏以外での東京行きは久しぶりでありました。

何だか短い時間でいろんなことをしたような気がします。


帰りの電車は、僕が乗った便を最後にそのあと止まってしまったようです。

電車の中はしんと静かで、車窓から見える屋根も、木々も、お墓も、河川敷もみな真っ白におおわれていました。

柳の木や、名前は分からないけれど、枝のたわんだ灌木に張り付いた雪がとてもきれいに見えました。


行き帰りの電車で読んでいた、昭和初期の散文の一部です。


「然し今の世の中のことは、これまでの道徳や何かで律するわけにいかない。~中略~ スポーツの流行、ダンスの流行、登山旅行の流行、競馬其他博奕の流行、みんな欲望の発展する現象だ。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分のほうが優れているということを人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている…その心持です。」
~中略~
何事をなすにも、訓練が必要である。彼等はわれわれの如く徒歩して通学したものとはちがって、小学校に通う時から雑踏する電車に飛び乗り、雑踏する百貨店や活動小屋の階段を上下して先を争うことに能く馴らされている。自分から子供は何もしてもよい、何をしても咎められる理由はないものと解釈している。こういう子供が成長すれば人より先に学位を得んとし、人より先に職を求めんとし、人より先に富を作ろうとする。この努力が彼らの一生で、其他には何物もない。


昭和10年代に、大正時代に育った人間を現代人と称し、こんな批判をなしていました。

その後戦争があり、そして訪れた成長期やバブルも、僕たちにとってはある部分では古き良き時代のように思われ、現実的ではない遠い昔の出来事です。

大正昭和の文豪たちが今の東京を見たらなんと言うだろう。

何気なく東京に来て、その雑踏に身をゆだねる度、まさにその批判の行きつく先、さもしい精神の世界に僕たちは暮らしているような気になります。


東京は大雪で、きれいな白い綿のように、家々がおおわれて最近では珍しい銀世界でした。

それも、電車が西へ向かって、隣の県に入るころには、だんだんとみぞれがちになり、いつか物さびしい氷雨になってしまいました。


僕たちの音楽は何を語っていけるだろうか。

そんなところへも思考は飛躍しました。

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