2012年1月24日火曜日

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今日は忙しい一日でした。

朝5時半に起き、用事をして、恩人のお見舞いに行って、
昼から、ヘルパーの仕事の会議に出て、
夜は、新しい演奏会の打ち合わせがありました。

病と闘っている恩人のお見舞いに行き、

その姿を見て、思いやりや愛情や、やさしさや、
何をかに対する憤りや、疑問や、やるせなさが、
同時に湧いてきて、

今日は見聞きすることが不思議な迫真を持ちました。

TVをつけると、宇宙の成り立ちや、
元素がどのように構成されたのか、
というような内容の科学番組をやっていて、

結局のところ、過去の超新星爆発や、
恒星の核融合で生まれた同じ元素によって、
僕たちの星も町も、草木も、体も、
出来ているのだということです。

どんな生命の体も、
その思考や意識という曖昧な事柄さえも、
鉄とかカーボンとか、水素とかの単純な物質が、
流転し、結合したり分解したりしている中の、
事象にすぎないのだなあ、と思いました。

何かがある条件のもとに結合し形をなし、
その形あるものは必ず壊れる。はたしてそれは、
自分たちが「生き死に」と呼んでいる事柄かもしれません。

結ばれたものが、解けてゆくことは、
悲しいことでしょうか。

僕たちの化学反応である曖昧な意識が、
それを悲しむのだとしたら、星々や岩や、銀河バルジは、
万物の流転そのものを、どんなに悲しんでいるでしょう。

と、そんな事を考えながら、打ち合わせに行き、

知り合いと話していると、「祟り」の話になり、
ある武将の首をはねたという武士の末裔と以前知り合って、

その家系は本当に祟られているのか、
男の子が生まれても、必ず子供のうちに死んでしまうので、
女の子に代々養子をもらって、永らえているのだ、

ということを聞いた、という話を聞きました。

生命たりとも万物の流転の中に、
また物質となって、帰っていくのではないのだろうか。

何だか頭がこんがらがりました。

しかし家に帰ると、時計の音がしずかにカチコチと、
一秒も帰らぬ時を刻んでいます。

何が真実であるにしろ、
自分も、いつかはどこかへ解き放たれて行って、
また違った事象として、実を結ぶ時が必ず来るのだ、
と思うと、

ふっと、窓辺に立っているアボカドの木も、
ぬいぐるみも、自分の体の一部であるような気がしました。

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